その救出の派遣団の中には、厚生省の職員はもとよりのこと ハミルトン オーバーホール、家族の方々、戦友の方々も含んでおるわけであります。また救出にあたりましては、いろいろ各方面のお知恵も拝借して、とにかく七カ月にわたって、当時としてはやれるだけのことをやった ハミルトン 時計、努力をしたというふうにいわれておりますその結果、それだけやっても、どうしてもわからないということで、当時の派遣団長は、もうこれは死亡したものと認めるという判断を下したようであります。またその判断を下すにあたっては ネイバーフッド ハミルトン、御一緒に捜索に当たられました家族の方々も、これだけさがしていただいてわからないならば、自分たちも、死亡したものというふうに処理していただいてけっこうであるという家族の方からのお申し出もあったというふうに聞いておりますそういった事情で捜索が打ち切られて、死亡したものとして扱われたのでございますが、引き続きお二方は生きておられたのでありますから ハミルトン 名古屋、いまから思えば、先生おっしゃるように、あのときもっと手を尽くしておくべきだったということが、非常に残念に思われるわけでございます○山下(徳)委員ただいまの局長の答弁で、昭和三十四年の最終の打ち切。